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使い捨てにされる文化

オープンソースの特異点

Linux をはじめとしたオープンソース文化の素晴らしいところは、みんなで力 を合わせてそれを支えている所だと思います。と、そんなわかりきった話を再 度書くまでもないことでしょう。
この「みんなが(自分の興味のあるところだけでも)参加して一つの事に取り組 む」という姿勢をいま一つ考えて見ましょう。

プログラム、そしてアプリケーション

何か動作するプログラムをオープンソースとして公開したとします。そのプロ グラムを入手し実行したところいくつか不具合を見付けたので、利用者がソー スを見てその不具合を修正し元の作者にパッチを送るという行為。
割とメジャーな形のオープンソース例だと思います。

ここで注目したいのは利用者が「修正したい」という欲求に駆られる部分です。 おおよそこの欲求が無いと上記形態は現れないでしょうし、そもそもソースを オープンにする必要も無いことになります。
ではなんで「修正したい」と思うのでしょうか?おそらくそのプログラムがそ の利用者にとって非常に有益なものだったからでしょう。そして、今後も使い 続けて行くにあたって自分が見付けた不具合があっては困るからどうにか回避 したいと思ったからじゃないでしょうか。
これらはとても自然な流れであり、プログラムがフリーであって欲しいという 理由でありましょう。

このことは「不具合の修正」が特定の利用者だけでなく大勢の利用者によって 益になる行為であるという事と、おおよそのプログラムは「使い続ける」もの だというあたりでまとめておきます。

ゲームとその起動時間

コンピューターゲームを入手したとしてあなたはどれくらいそれで遊んでいま すか?

昔のゲームはアクションゲームが主で、特に明確な終わりも設定されていなかっ たのでプレイヤーの腕次第とか少し遊んでおもしろかったとかいった形態のも のが多かったと思います。
最近は物語性や面構成が重視され明確に始まりと終わりが存在するようになり ました。シューティングゲームにもエンディングがある程です。
特にアドベンチャーやロールプレイングといった物語性が大きいジャンルでは ゲームの肥大化にともない「繰り返し遊ぶ」というプレイヤー姿勢が失われつ つあります。さらに、日本では「難しいほど良いゲームだ」という概念はほぼ 完全に無くなり通り一辺済ますのもそんなに困難では無くなっています。

つまり、ゲームは大多数の人において「一回遊んだらそれまで」という物になっ ているのです。

本当に面白いゲームは何度もやる(読む)よ、という声もあるかもしれませんが そういうタイトルはほんの一握りではないでしょうか。また誰もが繰り返し読 むという行為に至るわけでもないと思います。

使い捨てにされる文化

ゲームを作成するのにはかなりのお金と人手を要します。
市販ゲームなら数千万から数億、期間は数ヵ月から数年。そこに若い労働力が (苛酷な労働条件の元)たくさん投与されひーひーいいながら作った物が店頭に 並ぶわけです。
そういった数多くの創造力と労働力を投じたものがプレイヤーにとっては数時 間のプレイ時間でしかないのです。なおかつ通り一辺遊んだら二度と起動され ないわけですし、年間販売タイトルは千にも近い数あるわけですから、この業 界はいかに文化の浪費が激しいかが見てとれます。

このゲームというものの消費文化と先程のオープンソース文化を比べてみると おおよそ反しているものと言えるのではないでしょうか。

ゲームを高めていくためには

そのように繰り返しプレイすることのないゲームというメディアにとっては、 プレイヤーが「修正したい」という欲求がほとんど現れないものです。
たとえ「あの立ち絵が気に入らないから直したい」と思っても完全に同じ絵が 描けるわけでもないし、それ以前にシナリオや絵に対する不満というのは個人 の好みの問題ですのでそれを修正することが大多数への益につながる事が約束 されません。
アドベンチャーやRPGだと「修正」出来る部分はパラメーターバランスとか、 フラグミスとか、誤字脱字くらいなものでしょうか。

逆に考えてみて、プレイ時間がそこそこ短く何度も繰り返し遊ぶようなゲーム タイトルならば、皆で高めていけるとも言えます。たとえば将棋や囲碁のよう なテーブルゲームを作ったとして、そのルールを皆で精錬していくことができ るのではないでしょうか。(マージャンやUNOの地方ルールみたいなもんです) アクションゲームで「もう少しここの難易度が」とか言ってバランスをどんど ん高めて行くβテストのような形もあるかもしれません。

どのようなメディアでもごく一部の人に見せて意見を聞きフィードバックする フィールドテストは行われるものですが、それはオープンソースであるとは言 えないのでここでは別にしておきます。オープンソースである限りユーザー全 員が誰でも自由にソースを入手できなくなくてはならないのですから。

おわりに

今回はゲームだけにしぼりましたけど、映画・小説・音楽、その他の娯楽に関 するメディアのほぼ全てがゲームと同等の通り過ぎ文化であることを追記して おきます。

ある意味プログラムの世界が特殊なのではないかということを提起し、全ての 事項をプログラムと同等に見てはいけないという注意を喚起したいと思います。


Oct.10.2000 れろれろ@ふみ(K.Kunikane)