ここで注目したいのは利用者が「修正したい」という欲求に駆られる部分です。
おおよそこの欲求が無いと上記形態は現れないでしょうし、そもそもソースを
オープンにする必要も無いことになります。
ではなんで「修正したい」と思うのでしょうか?おそらくそのプログラムがそ
の利用者にとって非常に有益なものだったからでしょう。そして、今後も使い
続けて行くにあたって自分が見付けた不具合があっては困るからどうにか回避
したいと思ったからじゃないでしょうか。
これらはとても自然な流れであり、プログラムがフリーであって欲しいという
理由でありましょう。
このことは「不具合の修正」が特定の利用者だけでなく大勢の利用者によって 益になる行為であるという事と、おおよそのプログラムは「使い続ける」もの だというあたりでまとめておきます。
昔のゲームはアクションゲームが主で、特に明確な終わりも設定されていなかっ
たのでプレイヤーの腕次第とか少し遊んでおもしろかったとかいった形態のも
のが多かったと思います。
最近は物語性や面構成が重視され明確に始まりと終わりが存在するようになり
ました。シューティングゲームにもエンディングがある程です。
特にアドベンチャーやロールプレイングといった物語性が大きいジャンルでは
ゲームの肥大化にともない「繰り返し遊ぶ」というプレイヤー姿勢が失われつ
つあります。さらに、日本では「難しいほど良いゲームだ」という概念はほぼ
完全に無くなり通り一辺済ますのもそんなに困難では無くなっています。
つまり、ゲームは大多数の人において「一回遊んだらそれまで」という物になっ ているのです。
本当に面白いゲームは何度もやる(読む)よ、という声もあるかもしれませんが そういうタイトルはほんの一握りではないでしょうか。また誰もが繰り返し読 むという行為に至るわけでもないと思います。
このゲームというものの消費文化と先程のオープンソース文化を比べてみると おおよそ反しているものと言えるのではないでしょうか。
逆に考えてみて、プレイ時間がそこそこ短く何度も繰り返し遊ぶようなゲーム タイトルならば、皆で高めていけるとも言えます。たとえば将棋や囲碁のよう なテーブルゲームを作ったとして、そのルールを皆で精錬していくことができ るのではないでしょうか。(マージャンやUNOの地方ルールみたいなもんです) アクションゲームで「もう少しここの難易度が」とか言ってバランスをどんど ん高めて行くβテストのような形もあるかもしれません。
どのようなメディアでもごく一部の人に見せて意見を聞きフィードバックする フィールドテストは行われるものですが、それはオープンソースであるとは言 えないのでここでは別にしておきます。オープンソースである限りユーザー全 員が誰でも自由にソースを入手できなくなくてはならないのですから。
ある意味プログラムの世界が特殊なのではないかということを提起し、全ての 事項をプログラムと同等に見てはいけないという注意を喚起したいと思います。